日本の漢詩

先回の「巻頭言」でも触れたが、二千年もかけて唐代に完成した「漢詩」を、日本人は、漢字を学んでまだ十分に使いこなせないうちから、その魅力に惹かれて作り始めた。そして八世紀半ば、我が国の年号で天平勝宝3年(751)ごろには、最初の漢詩集『懐風藻』を編集するに至った。時怡も大唐王朝の最盛期、李白・杜甫を始めとする勝れた詩人たちが雲の如くに現れ、当時世界最大の都と言われる長安を中心に活躍していた。その際に、東海の草深い小島の中から、臆することなく、最初の漢詩集を作り上げたのである。

その先達の心意気は、それからちょうど千年、江戸の半ばに到って、見事に実を結んだ。石川丈山、新井白石、荻生徂徠らを先達として、服部南郭、袛園南海等々、京都・江戸を中心に、全国大小三百藩、島国の隅々まで文風厚く普く、それこそ雲の如くに詩人が現れたのであった。正にこれは〝世界の奇蹟〟と言うべきではないか。

その勢いは、江戸化から明治にかけて、猶お衰えることなく続いたのであるが、一方、新しい教育制度の普及と、所謂ナショナリズムの勃興などによって、“日本の漢詩・漢文”は、「日本文学史」の中で、正当な位置を失っていった。時代の趨勢とは言え、誠に残念なことである。

今、明治以後の文人(文学者)で、漢詩を遺している人物を、思いつくままに並べてみよう。森鷗外(1862年生まれ)、正岡子規・夏目漱石・中野逍遥(1867年生まれ)以上、明治以前の生まれ、芥川龍之介(1892年生まれ)明治中期、中島敦(1909年生まれ)明治末期。

これらの人々の漢詩を見ると、初期・中期・末期の間には、明らかな段差がある。

さて、結論を急ごう。我々の前に遺された「日本の漢詩」は独自の価値を持つ。故に、真剣に取り組んでいかねばならないし、またそのことを広く訴えていかねばならない。それこそ、漢詩文に携わる者の責務であろう。

(学会誌第64号・巻頭言より)